new eyes


目の見えない人は、指の先で文字を読む。だから、

指は「見ること」ができる。

「もし目が見えないなら、身の周りにあるものを知るには

いったいどうすればいいのか?」

手っ取り早く目を閉じてみることで、なにかヒントが

掴めるかもしれない。たしか大船駅のホームの上で

そんな半分遊びのような実験を思いついた。

小学生だった私は左手に真っ白な観音様を見上げて

それから目をつぶったのを、今でも覚えている。

きっとテレビアニメか漫画を見たあとだったのかもしれない。

実験の最中は、主人公の女の子のような

ちょっと感傷的な気分が楽しかった。

ぶつからないように両手を前へ伸ばして、すり足で進んでみた。

すると

耳に飛びこむように入ってくる駅のアナウンスや、

いつもは全く意識さえしない足元を吹き抜ける風さえも、

いちいち私をびっくりさせる得体の知れないものへ

変わってしまっていた。

それはまるで靴を脱いで裸足で道を歩くような感じ。

靴で守られていた柔らかい足の裏にあたる小さな土くれや

石のつぶにもひどく敏感に反応し、おっかなびっくり歩くようなもの

だった。

子供の私は、目を閉じていてもものが「見える」ということを、

つまり体を使って他の存在を「感じることができる」

ということを体験したものの、それがどういうことなのか

はっきりと認識できてはいなかった。

ただ、とても不思議な感覚だけはそこにあった。

そんな他愛もない遊びにすぐに飽きてきた私は、

すり足をやめパッと目を開けた。列車の線路がすぐ足元に見えた。

私はホームの際へといつの間にか近付いてしまっていた。

すぐそばで見守っていた父は娘の遊び事を快く思っていなかったのか、

足元の線路を前にびっくりした私へ一言、

「いい加減にしろ」と静かに言った。

実験という名の無邪気な遊びが、

叱られたことへの後悔と、危険で敬意のない真似事に対する

無知への恥ずかしさに、楽しかったはずの外出が

あっというまに居心地の悪いものへと変わってしまった。

いつからだろう。私の指先もさまざまなものを見るようになった。

それは指の先だけでなく手のひらや腕、額、足の先、

おそらく私の体全てが。

しかし、もともとわがままな私には、

見えるものにどうやら決まり事があるらしい。

私の目よりも指先の方が見ていた、そういうことがたびたびある。

少し汗をかいていた男の子のうなじのくぼみ。

日に焼けた肌はするすると絹のように滑らかで、

そしてその色とは裏腹なひんやりとした冷たさは、

私の指の方がよく知っている。

私の肩の方がその体の重みや手の形を、

私の背中はその腕のしなやかさを、ほかのなによりもよく見ている。

真っ暗な部屋の中で話す電話の向こうの声は、

目の前で話すよりもっとはっきりと、その唇の形や動きを、

耳が「見ている」。

きっと体のどこでもいい。暖かい体温を感じたとたんに、

部屋のカーテンが風で揺れる様子や覗き込んだ手元の新聞の記事、

様々な景色が目の前に鮮やかに映り出すのも、

それと同じことなのかもしれない。

子供は大人より感受性が豊かだとよく人は言うけれど、

今の私は子供以上に感じやすくなっているみたいだと、つくづく思う。

けれど、「大切な存在」を持つ人々には

あまりにも当たり前な常識を今さらながら感じ入っている私は、

無邪気に目を閉じヨロヨロすり足しながら

遊んでいた子供の頃と、あまり大差ないのかもしれない。

ただ、

素足の裏に小石が刺さることも、草花からのびる

鋭い葉先でヒリヒリするかすり傷ができることも、

今の私は怖れない。

相変わらずおっかなびっくりの歩みではあるけれど、

ゆっくりと地を踏みしめその感触を楽しめるようになってきた。


文字が読めない私の新しい目たちは、

愛しい気持ち、というとても単純なのに形にならない

「コトバ」だけは敏感に読み分ける、

私の体のもうひとつの器官として動き始めたようだ。

written by 藤沢佳乃

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